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la bonne chanson dans mon cœur

とある藝大生。好きなもの、考えたもの、思いついたことについてツラツラと書いていきます。カメラ、革靴、色々、もちろんピアノも。

生命の味

博多の櫛田神社、ご存知ですか?まあもちろんないですよね。

近くには高級韓国料理店があります。どうだっていいですね。

 

霊泉鶴の井戸があります。不老長寿の水として崇められています。確か3口に分けて飲むんだったかな?

 

キョーレツに不味いんです。凄い鉄分と塩の味。井戸は真っ赤です。

でもこれ、よく考えたら血の味そっくりなんですよね。だからそういった祀られ方をするのかな。

 

ふと思い出した故郷のお話でしたとさ。

私の人生において

大体の場合、運命的なものや見えない力による流れに抗っても良いことは起きない。

それってのは、いつも私の中に聞こえる声。誰か知らないけれど、守護霊なのかもしれないし、私が産まれる前に亡くなった姉なのかもしれない。もちろん幻聴を訴えて精神科にかかるべきなのかもしれないのだけれど。笑

今回ばかりは、何も声がしない。それはその声ですら判断できないのか、私を試しているのか、私を突き放しているのか。分からない。

 

結局、自分では何も決められないんです。

恐らく自分で決めたことは1度も無いのではないか。

 

そしてごめんね、私が書いてしまった。ずるいでしょう?笑

Marchons !!

どうしても自分の思考の次元に辟易して仕方が無い状態ってのが、不定期だけれども度々訪れる。それは他人と自分を見比べることに起因することが多い。

 

決して今までの自分に満足していた訳では無い。いやでも もちろん、一定の納得のもとにはあったけれども。

RPGゲームが分かりやすい例えかもしれない。

それぞれのレベルで段階があって、すべきことがあり、限界があり……。

そのレベルで動けるフィールド内をくまなく動き、スキルを少しずつ上げ、さあぼちぼち次に行くかと言ってちょっとしたボスを倒し、次の段階へと進む。

 

私は今もうこの脳ミソがいやだ!この文章がいやだ!新しいものを得たい。もっと高い次元の思考を得たい。

甲斐路を再び。

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甲武二州の国境を 越ゆれば雲の上野原 四方津の嶺は我々として 翼をかえす鳥沢やf:id:maru-hammerklavier-musik228:20170318112052j:image

積翠凝りて滴りて 玉なす水の桂川千尋の断崖に かかるや猿橋虹の如

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川を隔てて聳ゆるは 岩殿山の古城蹟 主君に叛きし奸党の 骨また朽ちて風寒し

 

 

音楽的なこと

を久しぶりに書きませう。たまには書かないとね。ピアニストなりかけの身として(?)。笑

 

トーキョーに来て、早いもので1年が経とうとしているのね。何を勉強しましたか?

 

最初は嘆き悲しみました。思っていたところと違ったのよ。アーティスティックじゃないやつばっかりでね。私の嫌いな人種。

それで、初夏にかけてはひたすらそれについて嘆き悲しむばかりの、ちょっとしたバカをやっていました。

結局、能動的に動くことを諦めていたってことです。

 

不毛な砂漠に放り出されたことをいつまでも嘆くより、その中で咲く花は無いか、湧き出る水は無いか、舞う蝶は、歌う鳥はいないか、それらを探すことの方がよっぽど懸命でしたね。

 

結論からすると、探せば出てくるもんです。つくづくバカだったと思います。

 

そこから導き出されたのが、音を良いタイミングで狙って鳴らすこと。語弊を恐れずに言うと、重音は同時に鳴らせってこと。それだけ。

これだけ単純明快な事に悩み苦しむ今日この頃です。12月にやっと気づいたこと。笑

音の説得力が明らかに違うのね。

 

HAHA いつもブログは「なんか書きたい!」から始まって「もう疲れた!」になるのね。相変わらずの尻切れトンボ投稿です。許してください。脳のメモリーの出張所みたいなもんだから良いんだけど(?)

何をいまさら。

人に会わないあいだ、ひたすら孤独に耐えられなかった。だから、インターネットを通して人と接したがった。

 

ここから先は、もう「当たり前だろ、今さら何を(笑)」って話。閲覧注意。

 

求めた先にあったもの、画面に映し出されたもの、それはもちろん虚像でしかなかった。

友だちは友だちの仮の姿だし、愛する人は、無機質な何かになった。

画面の向こうで携帯を操作するのはもちろん紛れもなく本物のその人であったが、機械を介せばそれは全くの別物である。

 

私はそれらにすがればすがるほど虚しくなった。それを知りながらもさらに求めた。

 

やっと明日から登校できる。人に会える。生身の人間に乾杯。

 

 

脳の容量に対してだよ?

世界はあまりに大きすぎるじゃない?

だから、

んーとね、つまり端的に言えばSNSは人間のキャパを超えていると思うの。

 

誰がどこで何した、こうした、何をどう思っている、こう思われている、

そんなこと、本来の人間ってのは対応できるように作られていないはず。

他人の脳みその中身を覗き込んだり、知らない土地の知らないものを眺めたり。

完全否定はもちろんしないけれど、だけれどもやっぱり現代人は不必要なものを知りすぎている。

 

六年前のニュースの映像はもちろん衝撃だった。だけれども、はっきり言って実感は無かった。絵空事のようだった。

 

今度は昨年、東京に来てすぐに熊本地震があった。

こっちの人たちがいかに無関心かを知った。表向きは心配しているけれど、それは立派な仮面だった。そして、自分でさえ少し無関心なことを知った。悲しかったが、どこか仕方が無かった。

 

不謹慎だ!不謹慎だ!とよく騒がれる。

だけど違う。単に人間のキャパを超えているのだ。悲しいことだが、所詮他人でしかない。人間は自分のことで精一杯。

それを社会はひた隠しにしている。タブー視している。

 

知り過ぎるから。繋がりすぎるから。他人の頭の中を覗き込むから。

本来あるべき人間と人間との距離が失われている。だから、イタチごっこの不謹慎論争などというくだらないものが発生する。

 

そんな日じゃないでしょう?